By: Kazusei Akiyama, M.D.

Food series: Peach (Prunus persica). Hanaoka’s hometown. Caju©2025.
2026年05月
歯を抜く者の日
ブラジルでは4月21日はTiradentesの日でした。毎年この日の前後は22日のブラジル発見記念日や場合によっては宗教的祝日も合わさり、長い連休になります。気候は良いし、旅行に出かけるのに最適な時期です。しかし、このコラムの25人の読者様も元々このTiradentesの祝日って、ただの休みじゃなくて、国民の「記憶」を呼び起こす装置なんだと認識されてますか。
Tiradentes(チラデンテス)とは、誰だったのでしょうか。本名はJoaquim José da Silva Xavier(1746-1792)。ミナスジェライス州の農場で生まれ、幼くして両親を失い、さまざまな職を転々としました。軍人、商人、鉱夫、そして歯科医。歯を抜く仕事から「Tiradentes(歯を抜く者)」の異名がつきました。歯科医といっても、当時は近代的なものではなく、抜歯や簡単な義歯作り、植物療法を組み合わせた実践的な治療者でした。 1789年、彼は「Inconfidência Mineira(ミナスジェライス陰謀事件)」に参加しました(註1)。ポルトガル本国が課す過酷な税金、特に金鉱山への「五分の一税」(註2)に反発した知識人・軍人・商人たちの秘密結社です。啓蒙思想、アメリカ独立革命、フランス革命の影響を受け、ミナスジェライスを独立共和国とする計画を立てました。Tiradentesは熱心な宣伝役で、演説が上手く、同志を増やしました。しかし、密告により計画は頓挫。仲間たちは減刑されたり国外追放されたりしましたが、彼だけが中心人物とされ、「主犯」として1792年4月21日、リオデジャネイロで公開処刑されました。絞首刑の後、遺体は四肢に切断され、各地に晒されました。
『まるで「見せしめ」そのもの。植民地支配の残酷さが凝縮されたような死に様ですな。そしてトカゲの尻尾切りだな。』
- 註1:Inconfidência Mineiraの詳細は歴史書や公式資料を参照してください。ネットでも多数情報が載ってます。英雄像の構築は共和国期の政治的文脈が大きい。
- 註2:「五分の一税」(Quinto do ouroまたは Quinto real)。植民地時代、ポルトガル王室がブラジル金鉱山から産出される金の5分の1(20%)を強制的に徴収した税。鉱山の「王有物」として位置づけられ、Inconfidência Mineiraの大きな反発要因となりました。
では、なぜこの処刑日が全国の祝日になったのでしょうか。1822年のブラジル独立後も、帝政時代はポルトガル王家とのつながりが残っていました。1889年の共和国宣言後、共和派は「王政からの完全な決別」を象徴する英雄を必要としました。そこでTiradentesが「再発見」されたのです。実際、彼の生前の肖像画は存在せず、後世に描かれた理想化された姿(髭をたくわえ、毅然とした表情)が広まりました。19世紀末の共和制樹立期は、国民国家のアイデンティティを急造する時代。植民地時代の「恥ずべき過去」ではなく、「自由を求めた先駆者」としてTiradentesを祭り上げ、4月21日を祝日に制定しました。現在も軍警察の守護聖人として崇められ、教科書や記念碑にその姿は欠かせません。
『英雄を“仕立て上げる”必要があった社会情勢だな。独立から70年近く経って、ようやく“自分たちの物語”を作り始めたわけ。』
Tiradentesは医療従事者であったので、ここで当時のブラジル医療に少し触れておきましょう。18世紀後半の植民地ブラジルは、医療が極めて多層的でした。ヨーロッパ由来のヒポクラテス・ガレノス流の血液抜き、浣腸などが医療措置である体液説(Theory of Humors)が基盤でしたが、医師数は少なく、ほとんどがコインブラ大学などポルトガル本国で学んだエリートでした。現地では理髪外科医(barbeiro-cirurgião)、産婆(parteira)、呪術師(curandeiro)、イエズス会薬局(Farmácias Jesuítas)が主力でした。現地の植物(例:抗マラリア薬であるキニーネの原料キナ樹)、先住民の知恵、アフリカ系奴隷の伝統医学が融合した「混成医療」が日常でした。熱帯病、感染症、栄養失調が蔓延する過酷な環境で、近代的な病院や医学校はほとんどなく、1808年にポルトガル王室がブラジルに移転した時点で医学校が設立され(註3)、ようやく医学教育の基盤が整い始めます。 欧米社会と比べると、ブラジルは明らかに「辺境」でした。啓蒙期のヨーロッパでは大学医学が科学化しつつありましたが、植民地は本国からの薬品輸入に依存し、知識の流入も制限されていました。Tiradentes自身が歯科と植物療法を実践していたのも、そんな実務優先の環境ゆえです。
『一方で、欧米の「先進医学」もまだ体液説中心で、細菌学は19世紀を待たねばならなかった。ブラジル医療の遅れは、植民地構造そのものが原因だったと言えるだろう。』
- 註3:バイア州サルバドール市のバイア医学校(Faculdade de Medicina da Bahia)がブラジルで一番古い医学校。設立時の名称はRégio Colégio de Cirurgia(王立外科医学校)。
同じ頃の日本はどうだったでしょうか。江戸時代後期(Tiradentes処刑の頃は寛政期)、日本は鎖国下にありましたが、長崎出島経由のオランダ貿易で「蘭学」が花開いていました。杉田玄白らによるオランダ語解剖書の翻訳である1774年の『解体新書』は衝撃的で、西洋解剖学が初めて体系的に導入されました。華岡青洲(1760-1835)は漢方と蘭学を融合させ、1804年頃に世界初の全身麻酔薬「通仙散」を開発し、乳癌手術などに成功。江戸の蘭学医たちは、積極的に西洋書を翻訳・実践し、外科・内科の革新を進め、「蘭方医学」を確立しました。
ブラジルとの比較が興味深いのは、両者とも「外部知識」を取り入れつつ、独自の道を歩んだ点です。ブラジルは植民地支配下で「混成・実用」重視だったのに対し、日本は鎖国という逆境下で「選択的受容」を実現できました。医療の質では、日本の方が漢方医学に基ずく医療制度や手術技術の取り入れ等(註4)で一歩先んじていたと言えます。
『植民地 vs 鎖国、どちらも“外圧”。しかし、対する反応の仕方が違ったのですな。』
- 註4:日本では明治維新まで漢方医学が正式の医療であり、蘭方医学は外科的措置のみ許可されていた。蘭方医は主に「紅毛流外科」として位置づけられ、手術・外傷治療など外科的処置が中心だった。漢方医が内科を独占する中、急性虫垂炎(当時の「盲腸炎」)のような腹部疾患は内科疾患とされ、蘭方医が外科的手術を施すことは制度上・慣習上難しく、薬物療法のみに限られた。結果、穿孔性腹膜炎へ進行し死亡する例も見られた。
Tiradentesの時代から約230年。ブラジル医療は飛躍的に進化しました。サンパウロの開業医として日々診察する今、過去の「不便」を思うと感慨深い。地方にいくとまだまだ混成医療が存在します。民間的な医療知識は急速に失われてますけど。しかし、「英雄」や「主犯」を仕立て上げる社会構造、そしてそれを宣伝に使う権力はまったく変わらないなと思いながら4月の休日を過ごした筆者でした。
