「今は男でも婦人科にかかることあるんじゃないですかね。」

By: Kazusei Akiyama, M.D.

Food series: Ravioli di granchio. London. Caju©2023.


2026年04月

「今は男でも婦人科にかかることあるんじゃないですかね。」

日本人であれば誰でも「映画・釣りバカ日誌」を知ってますよね。釣りバカ日誌18で次のようなくだりがありました:主人公の「浜ちゃん」が失踪した「スーさん」を探しに行く事になるのですが、会社を休まないといけない。しかし、すでに有給休暇は全部使っているし、「親族の葬儀が〜」はもう死ぬ人がいないくらい使っているし忌引き休暇は短いしどうする?と知恵を絞った結果が浜ちゃんが病気になったと知り合いの医師に診断書を書いてもらうやり方でした。で、その医師が産婦人科なのでレディスクリニックの診断書が提出されるのですが、会社ではもちろんどうして男性が婦人科にかかっているのだと問題にされます。この映画、2007年に公開されており、浜ちゃんのセリフが今月の表題です。約20年経った今、男性が婦人科に行っても驚かない、驚いてはいけない、世の中になってます。

去る3月11日、ブラジル連邦下院の女性権利擁護委員会(Comissão de Defesa dos Direitos da Mulher)で、委員長選挙が行われました。選ばれたのはPSOL党のエリカ・ヒルトン議員。彼女はブラジル史上初のトランスジェンダー女性としてこの要職に就き、「すべての女性を代表する」と宣言されました。ところが選出直後から波紋が広がっています。初回の委員会で、彼女は「mulher biológica(生物学的女性)」という表現を拒否し、代わりに「pessoas que gestam(妊娠する人々)」という言葉を使いました。女性を「imbeCIS(馬鹿者)」(註1)や”彼女”を批判する人達を「esgoto(下水道)」とX・Twitterに投稿してます。またこの議員は女性に関する法案に反対票を投じた事実が多数あり、この状況に対し、保守層だけでなく、一般の”生物学的女性”からも「私たちを代表しない」「女性の定義を消す気か」との声が上がっています。委員会での用語論争は3月18日の初回セッションで顕在化。Júlia Zanatta議員らとの激しいやり取りが報じられています。

  • 註1:ポルトガル語で「imbecis」はimbecilの複数形「馬鹿者達、愚か者達」という意味だが、今回imbeCISと書かれたのはCIS、トランスジェンダーのTRANSの対義語(つまり「ストレート」、異性愛者、一般的な男女)を組み合わせ、「愚かな異性愛者達」と表現した訳だな。上手い、パチパチ。

『これは……ただの言葉の選び方じゃないよな。現実そのものを書き換えようとする動きだ。』

この現象を、筆者は社会構築理論(Theory of Social Construction)の観点から見てみたいと思います。1966年にピーター・バーガーとトーマス・ルックマンが著した『現実の社会的構築』という古典があります(註2)。彼らによれば、私たちが「現実」と呼んでいるものは、生物学的・物理的な事実だけではなく、社会的相互作用を通じて日々構築され、再構築されるものだと言います。性別(sex)ですら、厳密に生物学的なものではなく、文化・言語・権力関係によって「作られる」側面がある——これが現代のジェンダー理論の基礎になっています。

エリカ・ヒルトン議員の用語変更は、まさにこの理論を実践している訳です。「女性」を「妊娠する人々」と言い換えることで、生物学的女性(XX染色体を持ち、子宮・卵巣を持ち、出産可能な身体)というカテゴリーを希薄化し、トランス女性や非バイナリーの人々も含む「包括的 inclusive」な定義に置き換えようとしています。世界的権威の医学誌『The Lancet』が2021年に月経貧困の特集で「corpos com vagina(膣を持つ身体)」という表現を使ったのも、同じ流れです(註3)。あの時は世界中で「女性を物体化するな」「生物学的現実を否定するな」と大論争になりましたが、今やブラジル議会で使用される用語にまで広がっています。

『グラムシのヘゲモニー理論を思い出す(註2)。あのイタリアのマルクス主義者が言った「文化・思想の闘争」。武力ではなく、言葉・教育・メディアを通じて人々の常識を塗り替える。支配階級は自らの価値観を「当たり前」にして、反対する者を「時代遅れ」「差別主義者」に仕立て上げる。その支配的ヘゲモニーを切り崩す「陣地戦」がまさに今、ブラジルで起きているのはそれではないかと。』

  • 註2:03の詳細はP. Berger & T. Luckmann, The Social Construction of Reality (1966)。グラムシのヘゲモニー概念は『獄中ノート』参照。
  • 註3:The Lancet誌の「bodies with vaginas」特集は2021年9月号。世界中で批判を受け、編集部が釈明する事態となった。

筆者はサンパウロで内科医をやっています。毎日、患者さんの身体を診ています。女性の体は男性の体と明らかに違います。心筋梗塞の症状、骨粗鬆症のリスク、ホルモン依存性疾患、妊娠・出産に伴う合併症……これらはすべて生物学的性差に基づくデータです。疫学では性差医学(Gender Medicine)が基礎です。子宮頸がん検診を「妊娠する人々のスクリーニング」と呼んだら、患者さんは混乱するでしょう。この「言語の闘争 disputa linguística」が進むと、何が起こるか。まず、生物学的女性の権利が希薄化されます。スポーツの女性カテゴリー、女性専用スペース、女性用トイレ、女性特有の医療資源配分……すべてが「包括性」の名の下に侵食されていってるのが現状でしょう。包括性が「排除性 exclusive」になってます。

『ブラジルはすでにLGBTQ+権利で世界的に進んだ国だが、同時に女性のDV被害、フェミニシード(女性殺人)が深刻だな。そんな中で「女性」という言葉自体を曖昧にすることは、本当に弱い立場にある生物学的女性を守ることになるのだろうか。実際にこの様な権利を前面的に出し、重要政策と位置づけている現政権ではDV被害や女性やトランスジェンダー殺人が記録的増加している事実がこのあたりの矛盾を曝露している。』

一方で、筆者はトランスジェンダーの方々を否定するつもりはありません。性別違和(gender dysphoria)は実在の苦痛であり、適切な医療的支援が必要です。そして、各個人の選択は各個人の問題であると考えます。でも、それが「女性というカテゴリーそのものを解体する」方向に進むのは別問題です。社会構築理論は確かに強力な分析ツールですが、生物学的現実を完全に無視してしまうと、かえって新たな不正義を生み出します。

『カエルの国のお風呂(2025年01月号のひとりごと)を思い出すな。ゆっくり温度を上げていくと、煮え死ぬまで気づかない。あの寓話のように、言葉が少しずつ変わり、気づいた時には「女性」という言葉がなくなっていた……そんな社会にならないかと、危惧するのだな。このコラムの25人の読者様は、サンパウロ在住のブラジル人、日系人、または日本にいる方々が多いと思う。ブラジル社会は多様性に満ちていますが、多様性を尊重するあまり、生物学的現実を否定する方向に「茹でガエル」状態になっていないでしょうかね。』

医療の現場では、常に「事実に基づく」判断が求められます。患者さんが「私は女性です」と言っても、染色体・ホルモン・解剖学的性差を無視して治療はできません。同じように、社会も少数のための「包括性」という美名の下に、半数の人口(生物学的女性)の現実を消してしまってはいけないと思います。2026年はブラジルで首長選挙があるのでさらに激しい文化闘争の年になりそうです。言語が現実を構築するという理論を、よく理解した上で、自分自身の身体と周囲の現実をしっかり見つめていただきたい。それが筆者からの、開業医としてのささやかな提言です。